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『北國』斐坂きぬ さん

https://fujossy.jp/books/2145/stories/33834


1.非人間的なキタグニ

 キタグニは非人間的である。

 彼は誰にとっても「好ましい人物」でしかなく、その好ましさと魅力ゆえに誰も彼を一番にはしなかった。中心はいつも一点であり、絶対に二点ではありえない。キタグニはみんなのものであり、それ故にキタグニは、キタグニ対多数の構図の中にしか存在できなかった。キタグニはクラスの中心であったけれど、誰かの親友ではなかったし、誰の恋人でもなかった。キタグニは生前一度も一対一の関係を持ち得なかった。

 キタグニは現象のようである。彼は夏を背負っている。ときたま夏そのもののようでもある。彼は名前に似合わず、夏の匂いをまとってみんなの前に現れ、何者をも受け入れる。普通に考えれば、夏という季節の冠になるのは一人の人間の名ではありえない。しかしキタグニは夏を形容する。彼は夏の擬人化のような素振りで、作中前半その魅力を振りまいた。

 キタグニは作中後半で幽霊となる。死後もその姿を、語り手の「俺」や自らの母親の前に見せる。死んでいるにも関わらず生気をたたえる。幻影は非科学的で、超常現象であり、言わずもがな人間の肉体のシステムを無視している。

 キタグニは非人間的である。強い感情を向けられる"誰かの相手"にはなりえず、夏であり続け、最後は幽霊にまでなってしまった。しかしキタグニが非人間的である時、必ずそこには影のように、人間らしいキタグニの感情や人事がまとわりついている。キタグニは中心であったからこそ誰かの一番になることを求めた。彼の身体には匂いがあり、彼にはキタグニという名前が付けられていた。彼には思い残しがあり、だからこそ幽霊になった。

 誰の相手にもなれないから、誰かの一番になりたい。北國という名前を持ちながら夏であり続けた。肉体は死ぬが思念は生きる。キタグニは誰の相手にもなれず、夏という普通名詞を背負って、幽霊になってしまったけれど、彼は誰かの相手になりたかったし、キタグニというれっきとした固有名詞を持っているのだ。キタグニには非人間的性質と人間的性質が同居している。


2.対立概念

 改めて考えてみれば北國(キタクニ)が一貫してキタグニと呼称されるのも示唆的である。キタクニと読まれる場合、四音のうち三音が無声音であるのに対し、キタグニと読まれる場合、無声音であったクに濁点がつくことで有声音化し、名前における無声音:有声音の比率が1:1に変わる。無声音は声帯の震えを伴わない発声であり、乾いて淡々とした印象を与える。反対に有声音は声帯の震えを伴う発声であり、その揺らぎが生温かさや湿り気、重々しい印象をもたらす。キタクニがキタグニと呼称されるだけで、頭の中の風景は、寒々しく凍てつく枯れ木の散在から、湿る雪・独特の訛り・こたつの熾火・分厚い衣服・もさもさとした屋根へと変わっていく。その湿った体温は、夏のだるい熱とも接続しうるのではないだろうか。

 キタグニはその名前・存在両方に対立を内包している。土を踏み歩くはずの「スニーカー」は「泥一つ付いていない」。前項で述べた非人間的ー人間的という対立にしろ、名前とその風体の北(寒さ)ー夏(暑さ)という対立にしろ、キタグニは反対のものを身のうちに同居させている。


3.語り手「俺」の失敗

 作中の描写の中でもう一人、反対のものを身のうちにかかえた人間がいる。語り手の「俺」である。

 彼はキタグニに関して、

「誰もがキタグニを好いていたように、俺ももちろんキタグニの事が好きだった。」

「なぜキタグニが皆に好かれていたのか。まるで誘蛾灯のごとく我々を吸引し、素知らぬ顔で牽引し続ける彼のどこに惹かれたのかと問われれば、俺は答えに窮する。それは、キタグニが“キタグニであったから“としか言いようがないのだ。」

「俺がキタグニに感じている好意は、同級生たちの好意とはまるっきり違っていた。俺は明らかにキタグニに恋愛感情を持っていたのだと思う。」

と述べる。彼は同級生たちと同じようにキタグニに惹かれたが、その感情は同級生の好意とはまったく別物なのだ。そして彼はキタグニの「特別」になりつつあることを認識しつつも、キタグニの期待には応えられない、と考える。彼の中には友情の認識とキタグニへの恋情があり、それは「同級生たちと同じ」ー「同級生たちとは違う」という対立や、友情ー恋愛という対立に彩られる。

 彼は対立を身のうちに抱えている。しかしキタグニのように、それを融合することは出来なかったのではないだろうか。

 キタグニの生前、「俺」の心の中で対立は安定することがなかっただろう。彼は自らの恋情を友情と取り混ぜて融合させてキタグニの一番になろうとしなかった。キタグニを"唯一の友達"にしようとしなかった。彼は「期待に応えることができない」人間だったのだ。

 彼は目の前のキタグニの匂いではなく、記憶の中のキタグニの匂いを探った。彼は自分の名を呼ぶキタグニの声の抑揚をうまくつかみとることが出来ない。「俺」はキタグニの人間的期待に気づきつつ、それを受け入れようとはせずに、キタグニの夏の匂いや、その孤高さといった非人間性に感じ入ってばかりだった。彼は自らのうちの友情と恋情を融合できなかったし、同様にキタグニの対立性も上手く飲み込むことが出来なかったのだろう。「俺」の中のキタグニは、キタグニが死ぬまで、対立したまま融合しなかったのではないだろうか。


4.語り手「俺」の成功

「 そして、その想いと等しく、自分を一番に想ってくれる人を探し続けているのだ。かつてのように。かつて追い求めていたように。 

「キタグニーー!」

 身を丸めるようにしながら大声で名を呼ぶ。俺がいるじゃないか、ずっと俺がいたじゃないか。」

 キタグニが「俺」を見ずに手を振る感動のシーンは、「俺」の中で、対立がきちんと融合したからこそもたらされたものなのではないかと考える。「俺」は友情も恋情もごちゃ混ぜにして、ただその想いの強さを「一番」という。キタグニがどうして幽霊となったのか、何を探していたのか理解する。「俺」の眼に映るのは記憶のキタグニではなくて、きっと本当の幽霊なのだろう。キタグニの幻影が「俺」の妄想によるものならば、キタグニの母親に見えるはずがないからだ。「俺」は記憶の中のキタグニではなく、その時確かに目に映ったキタグニに向けて叫んだ。その行動は、高校時代の「俺」と大きく異なる。


5.キタグニ時間

 「俺」はキタグニの幽霊を、「しかし、ある時からふと、まあキタグニだからそういう事もあるのだろうと、神出鬼没にキタグニ時間で夏を生き続ける彼を受け入れ、納得した。」という形で受け入れた。この時ポイントとなるのが「キタグニ時間」である。

 「キタグニ時間」は早い。作中ではその短命さや、カップヌードルの待ち時間を待ちきれない様子についてこの言葉が使われた。

 この「キタグニ時間」こそが、「俺」とキタグニの関係を特別にするきっかけであり、キタグニを人間的にするトリガーであり、キタグニが一番を見つけるための鍵となる概念なのだろうと考える。この「キタグニ時間」によって、あれほどまでに重ね合わされていた「夏」とキタグニが分離可能になり、「俺」がキタグニの唯一となるのである。

 「キタグニ時間」は「早い」。しかし作中一度、「夏」は「ぐずぐずした」と形容されている。「ぐずぐず」と「早い」は対立というよりもはや”ずれ”である。「キタグニ時間」という考え方によって、夏とキタグニはずれ始める。そのずれはやがてキタグニから非人間的な現象性を引き離すことに繋がるだろう。そして夏という現象と、キタグニ個人を引き離す「キタグニ時間」を考え得たのは「俺」ただ一人なのである。「キタグニ時間」の構想は、キタグニが即席ラーメンを待ちきれずに食べる様子に端を発する。この様子を「俺」が目撃し得たのは、キタグニの家に泊まったからであり、それはキタグニが「俺」を特別に扱ったからに他ならない。「キタグニ時間」を考え得たのは「俺」ただ一人であっただろう。

 キタグニは「俺」を特別扱いした。「キタグニ時間」によってキタグニと夏は分離する。「俺」はキタグニを理解し、愛した。

 キタグニはもう誰かの一番であり、夏ではない。そしてきっと、(無粋ながらも考えてしまう)この作品の続きで、「俺」は「夏のすこしまえ」にキタグニを出迎えるのだろう。その時にはもう、キタグニは幽霊でいる必要はない。

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