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今日のゼミは、在原業平ってめちゃくちゃモテたんだろうということが歌から汲み取れたのでとても楽しかったです。
平安時代、男は自分の妻ではない女のことを全然見ることができないのが普通です。それでも、女が車に乗ってる時とか、御簾の近くにいる時とか、ちらっと夫でもない男の目に、女が見えてしまうこともあって、そういう風に女を見てしまった時、男はその女に歌を遣わすわけです。
例えば、壬生忠岑は
春日野の雪間をわけて生ひいでくる草のはつかに見えし君はも
(野の雪をわけて生えてくる芽のように、ちらっと、しかし確かにあなたを見た)
と詠み、貫之は
山桜霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ
(桜が霞の間から僅かに見えるように、ちらと見えた人が恋しい)
と詠んだ。
ちらっと見えた女の人に贈る恋歌は、たいていその女の人を細かく描写した歌にするのが定番です。
しかし業平は、
見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめ暮らさむ
(見てないわけでも、はっきり見たわけでもない人が恋しくて、わけもわからず今日も物思いに沈んでいます)
と詠んで贈ります。
女の描写なんて全くしないんですよね。あなたが恋しい、と直接言うわけでもない。下手したら独詠歌でも通用しちゃうような、ただ自分の心の内を独り言みたいに詠んだ歌。さて、これが贈られてきて、それを読んだ女がどう思うか。「は?」と思う女もいるかもしれない。でも多分やられる女もいますよね。
自分を見ていた、というその現場を劇的に描写されるより、自分が新芽や山桜に喩えられるより、多分どきどきするんじゃないかと思う。男の目に映ったであろう自分を想像するのではなくて、多分、恋に惑乱している手紙の贈り主の男の方を想像してしまう。
どこかで自分は見られていた、でもそんなにしっかりとは見られていないはず、でも、少ししか見てない私を思って、この人はこんなに覚束ない状態なのか…と思ったらもうあと一歩だと思います。そしてこういう常識破りの歌を贈ってくる男が女慣れしてないわけがないよな、とも思います。
さすが「心あまりて言葉足らず」の男なだけあるなあ、絶対めちゃくちゃモテたでしょ、と思えたので、今日のゼミは楽しかった。ゼミは毎週楽しいけど、今日は特に。
『北國』斐坂きぬ さん
https://fujossy.jp/books/2145/stories/33834
1.非人間的なキタグニ
キタグニは非人間的である。
彼は誰にとっても「好ましい人物」でしかなく、その好ましさと魅力ゆえに誰も彼を一番にはしなかった。中心はいつも一点であり、絶対に二点ではありえない。キタグニはみんなのものであり、それ故にキタグニは、キタグニ対多数の構図の中にしか存在できなかった。キタグニはクラスの中心であったけれど、誰かの親友ではなかったし、誰の恋人でもなかった。キタグニは生前一度も一対一の関係を持ち得なかった。
キタグニは現象のようである。彼は夏を背負っている。ときたま夏そのもののようでもある。彼は名前に似合わず、夏の匂いをまとってみんなの前に現れ、何者をも受け入れる。普通に考えれば、夏という季節の冠になるのは一人の人間の名ではありえない。しかしキタグニは夏を形容する。彼は夏の擬人化のような素振りで、作中前半その魅力を振りまいた。
キタグニは作中後半で幽霊となる。死後もその姿を、語り手の「俺」や自らの母親の前に見せる。死んでいるにも関わらず生気をたたえる。幻影は非科学的で、超常現象であり、言わずもがな人間の肉体のシステムを無視している。
キタグニは非人間的である。強い感情を向けられる"誰かの相手"にはなりえず、夏であり続け、最後は幽霊にまでなってしまった。しかしキタグニが非人間的である時、必ずそこには影のように、人間らしいキタグニの感情や人事がまとわりついている。キタグニは中心であったからこそ誰かの一番になることを求めた。彼の身体には匂いがあり、彼にはキタグニという名前が付けられていた。彼には思い残しがあり、だからこそ幽霊になった。
誰の相手にもなれないから、誰かの一番になりたい。北國という名前を持ちながら夏であり続けた。肉体は死ぬが思念は生きる。キタグニは誰の相手にもなれず、夏という普通名詞を背負って、幽霊になってしまったけれど、彼は誰かの相手になりたかったし、キタグニというれっきとした固有名詞を持っているのだ。キタグニには非人間的性質と人間的性質が同居している。
2.対立概念
改めて考えてみれば北國(キタクニ)が一貫してキタグニと呼称されるのも示唆的である。キタクニと読まれる場合、四音のうち三音が無声音であるのに対し、キタグニと読まれる場合、無声音であったクに濁点がつくことで有声音化し、名前における無声音:有声音の比率が1:1に変わる。無声音は声帯の震えを伴わない発声であり、乾いて淡々とした印象を与える。反対に有声音は声帯の震えを伴う発声であり、その揺らぎが生温かさや湿り気、重々しい印象をもたらす。キタクニがキタグニと呼称されるだけで、頭の中の風景は、寒々しく凍てつく枯れ木の散在から、湿る雪・独特の訛り・こたつの熾火・分厚い衣服・もさもさとした屋根へと変わっていく。その湿った体温は、夏のだるい熱とも接続しうるのではないだろうか。
キタグニはその名前・存在両方に対立を内包している。土を踏み歩くはずの「スニーカー」は「泥一つ付いていない」。前項で述べた非人間的ー人間的という対立にしろ、名前とその風体の北(寒さ)ー夏(暑さ)という対立にしろ、キタグニは反対のものを身のうちに同居させている。
3.語り手「俺」の失敗
作中の描写の中でもう一人、反対のものを身のうちにかかえた人間がいる。語り手の「俺」である。
彼はキタグニに関して、
「誰もがキタグニを好いていたように、俺ももちろんキタグニの事が好きだった。」
「なぜキタグニが皆に好かれていたのか。まるで誘蛾灯のごとく我々を吸引し、素知らぬ顔で牽引し続ける彼のどこに惹かれたのかと問われれば、俺は答えに窮する。それは、キタグニが“キタグニであったから“としか言いようがないのだ。」
「俺がキタグニに感じている好意は、同級生たちの好意とはまるっきり違っていた。俺は明らかにキタグニに恋愛感情を持っていたのだと思う。」
と述べる。彼は同級生たちと同じようにキタグニに惹かれたが、その感情は同級生の好意とはまったく別物なのだ。そして彼はキタグニの「特別」になりつつあることを認識しつつも、キタグニの期待には応えられない、と考える。彼の中には友情の認識とキタグニへの恋情があり、それは「同級生たちと同じ」ー「同級生たちとは違う」という対立や、友情ー恋愛という対立に彩られる。
彼は対立を身のうちに抱えている。しかしキタグニのように、それを融合することは出来なかったのではないだろうか。
キタグニの生前、「俺」の心の中で対立は安定することがなかっただろう。彼は自らの恋情を友情と取り混ぜて融合させてキタグニの一番になろうとしなかった。キタグニを"唯一の友達"にしようとしなかった。彼は「期待に応えることができない」人間だったのだ。
彼は目の前のキタグニの匂いではなく、記憶の中のキタグニの匂いを探った。彼は自分の名を呼ぶキタグニの声の抑揚をうまくつかみとることが出来ない。「俺」はキタグニの人間的期待に気づきつつ、それを受け入れようとはせずに、キタグニの夏の匂いや、その孤高さといった非人間性に感じ入ってばかりだった。彼は自らのうちの友情と恋情を融合できなかったし、同様にキタグニの対立性も上手く飲み込むことが出来なかったのだろう。「俺」の中のキタグニは、キタグニが死ぬまで、対立したまま融合しなかったのではないだろうか。
4.語り手「俺」の成功
「 そして、その想いと等しく、自分を一番に想ってくれる人を探し続けているのだ。かつてのように。かつて追い求めていたように。
「キタグニーー!」
身を丸めるようにしながら大声で名を呼ぶ。俺がいるじゃないか、ずっと俺がいたじゃないか。」
キタグニが「俺」を見ずに手を振る感動のシーンは、「俺」の中で、対立がきちんと融合したからこそもたらされたものなのではないかと考える。「俺」は友情も恋情もごちゃ混ぜにして、ただその想いの強さを「一番」という。キタグニがどうして幽霊となったのか、何を探していたのか理解する。「俺」の眼に映るのは記憶のキタグニではなくて、きっと本当の幽霊なのだろう。キタグニの幻影が「俺」の妄想によるものならば、キタグニの母親に見えるはずがないからだ。「俺」は記憶の中のキタグニではなく、その時確かに目に映ったキタグニに向けて叫んだ。その行動は、高校時代の「俺」と大きく異なる。
5.キタグニ時間
「俺」はキタグニの幽霊を、「しかし、ある時からふと、まあキタグニだからそういう事もあるのだろうと、神出鬼没にキタグニ時間で夏を生き続ける彼を受け入れ、納得した。」という形で受け入れた。この時ポイントとなるのが「キタグニ時間」である。
「キタグニ時間」は早い。作中ではその短命さや、カップヌードルの待ち時間を待ちきれない様子についてこの言葉が使われた。
この「キタグニ時間」こそが、「俺」とキタグニの関係を特別にするきっかけであり、キタグニを人間的にするトリガーであり、キタグニが一番を見つけるための鍵となる概念なのだろうと考える。この「キタグニ時間」によって、あれほどまでに重ね合わされていた「夏」とキタグニが分離可能になり、「俺」がキタグニの唯一となるのである。
「キタグニ時間」は「早い」。しかし作中一度、「夏」は「ぐずぐずした」と形容されている。「ぐずぐず」と「早い」は対立というよりもはや”ずれ”である。「キタグニ時間」という考え方によって、夏とキタグニはずれ始める。そのずれはやがてキタグニから非人間的な現象性を引き離すことに繋がるだろう。そして夏という現象と、キタグニ個人を引き離す「キタグニ時間」を考え得たのは「俺」ただ一人なのである。「キタグニ時間」の構想は、キタグニが即席ラーメンを待ちきれずに食べる様子に端を発する。この様子を「俺」が目撃し得たのは、キタグニの家に泊まったからであり、それはキタグニが「俺」を特別に扱ったからに他ならない。「キタグニ時間」を考え得たのは「俺」ただ一人であっただろう。
キタグニは「俺」を特別扱いした。「キタグニ時間」によってキタグニと夏は分離する。「俺」はキタグニを理解し、愛した。
キタグニはもう誰かの一番であり、夏ではない。そしてきっと、(無粋ながらも考えてしまう)この作品の続きで、「俺」は「夏のすこしまえ」にキタグニを出迎えるのだろう。その時にはもう、キタグニは幽霊でいる必要はない。
旅行先で泊ったペンション、スター☆パーティのオーナーさんから個人的にしっくりくる話を聞きました。アルタイル(わし座)とベガ(こと座)が何故ペアとして扱われるのか、という話です(私がそういう風に勝手に解釈してるだけかもしれないですが)。
まずアルタイルとベガ、聞くと、夏をイメージする人が多いんじゃないでしょうか。デネブも入れると「夏」の大三角になりますし。ところが、夏のアルタイルとベガって、あんまりセットな感じがしないんです。ベガは天頂近くにあるけど、アルタイルはそれよりは低いところにある。確かに天の川を挟んで対称なのかもしれないけれど、ちょっとしっくりきません。「飛ぶ鷲」「落ちる鷲」、「彦星」「織姫星」というほどの関係性があるように思えない。ところが秋になると話が変わってくるのです。
オーナーさんがプロジェクターに秋の夜空を映します。秋が深まっていくにつれ、アルタイルとベガは同じような高度に位置し始めます。そして十一月末まで、この二つの星は高度を揃えています。オーナーさんが「飛ぶ鷲」「落ちる鷲」の説明を始めます。いわく、アルタイルを「飛ぶ鷲」、ベガを「落ちる鷲」と捉えるとき、注目すべきはアルタイルとその両脇の星、ベガとその両脇の星、この三つずつのみであるのだと。秋ごろの空では、アルタイルとその両脇の星は、ほとんど水平の一直線をなします。この形はまるで空を滑空する鷲です。一方、秋ごろの空においてベガとその両脇の星はV字型をなしています。これはまるで獲物を見つけて急降下する猛禽類の姿です。秋ごろ、同程度の高度にあって、とても対照的な形を表すアルタイル(わし座)とベガ(こと座)が、「飛ぶ鷲」「落ちる鷲」とセットにして考えられてきたのはとても納得できる話です。
同程度の高度に並んだアルタイルとベガを見て、私は高校時代の古文の授業を思い出しました。先生が質問します。「七夕はどの季節の季語でしょう?」。正解は「夏」ではありません。「秋」なのです。
七夕伝説は陰暦の時代の伝説です。だから七月七日という日付けも陰暦で考えねばなりません。陰暦では7月8月9月が秋なのです。つまり七夕伝説は秋のお話です。
夏は、織姫星が天頂にあり、彦星はその下にあるというアンバランスな形です。ところが、秋になると、彦星と織姫星はまるで本当に夫婦のように、同じ高度に並ぶのです。
二週間ほど前、大学の図書館で授業のノートをまとめていたら、隣のテーブルの学生たちが大きな声で話し始めた。起業の話をしているようだった。話はどんどん熱の入ったものになっていって、政治や、経済や、教育、社会それ自体のことにまで及んだ。それをなんとなく耳に入れながら、「なんて夢見がちで身の程知らずなんだろう」と思った。思って、少し落ち込んだ。
私の入った大学は世間の多くの人に三流私立大学と認識されている。
授業はとても面白い。私は民俗学の講義が一番気に入っている。講義の途中に、受講生の中から鋭い質問が飛んだりもする。友達も何人かできたし、サークルにも入った。ゼミの先生もクセがあるけれど面白い人だ。サークルで出会った人には、高校時代に脚本構成の勉強をしていた人も、一年で500冊もの本を読んだ人もいる。この大学には私より頭のいい人がたくさんいて、私は第一志望の国立大学にまったく歯が立たなくて、つまりこの大学は、驚くほど自分の身の程にあっている。
なら、どうして、こんなにも切なくて仕方がないのだろう。
この大学の授業を面白いと思うたびに、この大学で自分より頭のいい人に出会うたびに、ここよりもっと上の大学で、もっと面白い授業が行われていて、この大学の人よりもずっと頭のいい人がその授業を楽しんでいることを考えてしまう。そしてその本当に「面白い」授業を、本当に「頭のいい」人たちを、私は少しも理解できないだろうということを、私はちゃんと知っている。
この世の中には階層というものがある。そして各階層の境目はとても分厚い。あまりに分厚いから、ほとんどの人がそれをただの空と地面だと思い込んでいる。空の上に人がいるとも、地下に人が生きているとも思わない。各階層の中でも上下やヒエラルキーがあるものだから、それを積み重なった階層のすべてなのだと思い込んでいる。本当は階層のうちの一つの層の中のことに過ぎないのに。そして人間はほとんどの場合、自分と同じ層の人間やものにしか接触できない。それがすべてだと思って生きていく。時々、一番上の層から落とされて、全階層を突破していくようなものがある。多くの名作はそういう形で大多数の人の目に触れる。私は階層の中の下のほうの層にいるけれど、この世にある多くの名作の存在を知っているし、いろいろな方法で読むこともできる。しかしそれは、きっと自分の力量分しか楽しめないのだ。自分の属す層・レベルの分しか楽しめない、私より上の層に生きる人間は私よりはるかに多くその名作を理解する。私は名作を十分に理解できずに、こんなもののどこがいいのだ、と批判を始めるかもしれない。こんなものは全然面白くない。まったくだめだ。ほら、私より頭のいいあの人だって、こんなものは駄作だといっているぞ。
その「頭のいいあの人」の頭のよさが、自分の層の中でのことに過ぎないのだとも知らずに。
私は、真に素晴らしいものを、好きになれないし楽しめないし理解できない。それが切ないのだ。
小学校の同級生に天才がいた。彼女はとても頭がよかった。小学生の私は彼女こそが天才なのだろうと思っていた。将来、彼女は何か偉大な発見をする学者や研究者になるのだろうと思っていた。彼女は運動もできたし、リーダーシップもあったし、明るかったし、お金持ちだった。中学校受験でよい学校に入った彼女とは連絡を取らなくなったけれど、当たり前に素晴らしい道を歩んでいるのだと思っていた。大学はハーバードとかケンブリッジとかに行っちゃうんじゃないかしらと、私は無邪気に、冗談のように思っていた。まさかそんな、でも、でも彼女が本気で頑張れば、なんだってできるんだろう。私やほかの子なんかにはとても無理なことだって。
「慶應に受かったけれど東大には受からなかったみたいで、浪人してやっぱり東大目指すんですって」と四月の初めに母に聞いた。慶應蹴るなんてすごいねえと笑いながら、胸が痛くて仕方がなかった。彼女ならなんだってできるのだろうと思っていた。
自分自身だけでなく、自分の好き嫌いや目利きさえ否定されていく。
「一般で受かった子ってみんなここが第一志望じゃないんだよ。だからすぐこの大学のこと馬鹿にするのね、でも私はここだけ目指して、ほんとに死ぬ気で、死ぬ気で、ここが第一志望で頑張ってきたじゃん、だからなんか悲しいなあって」という通話を大学の最寄駅で、でかい声でしていた女の子は、多分私と同じ大学の学生だ。